★座談会
面会交流実現運動から共同親権運動へ
■司会   宗像 充
■参加者 植野 史
鵜飼恵子
望月ろたす(仮名)
苅谷厚志
杉本 隆

(会報「共同親権運動」創刊号より)

■「可哀想な親」作戦

宗像 これまで、ほぼ一年半にわたってぼくらは当事者運動を行ってきたわけですが、その活動の総括と、これからの展望について語ってもらいたいと思います。
昨年(二〇〇八年)の二月に、僕と史(ふみ)さんが国立市へ陳情を出しました。それまでは自助的な活動を行っていたわけですが、この陳情がひとつのマイルストーンになったと思うんですね。これがきっかけになって、さまざまな人たちが表に出てきたり、つながりができて、ひとつの社会運動になっていったと思うんです。このあたりのことについて、史さん、どうでしょう。
植野 最初に、宗像に言われるまで、私は何をやろうとか考えていなかったし、このまま「可哀想な自分」で一生終わるのかなと思ってました。でも、宗像に声をかけられて、次の週にはもう陳情を提出してるんですね。そこからいろんな議員や人に会って、もう話すたびに泣きまくりで……。「何を話せばいいの?」って聞くと「自分のことを話せばいいよ」って言われて、自分のことを話せば、ただ泣くしかなくて。でも、国立市議会で採択ももらったし、意見書もあげられたし。そこからいろんなことが始まったんですよ。
宗像 その頃、僕は調停を上げるところだったんですね。それまでは、相手方と直接交渉をしていて、できるだけ穏便にと思ってた。それが調停に移るということで「もういいや」と思って、また、この問題については政治的に発言していくことが重要だなと考えて記者会見を開いたんですね。最初の僕の獲得目標は「記者会見をやって新聞に出す」ということで、それは成功したんです。この問題について語るとき、いつも「よっぽどひどいことしたんじゃないの」とか、当事者に非があるような言い方をされます。そうじゃなくて、制度やシステムに問題があるということがなかなか分かってもらえない。それを理解してもらうためには、やはり当事者が表に出て行くことが大事だと思ったんですね。ある記者は、この会見を「カミング・アウトだ」と言ってましたけど。
植野 三月十一日、立川市役所のロビーでした。朝日、読売、毎日、東京の4社が来てくれて、私と宗像とKさんが順番に自分の話をして……。
宗像 まあ、泣かせたね(笑)。要は「知らなかった」っていうのが記者たちの反応だったよね。ちなみに、僕はこれを「可哀想な親作戦」と名づけてました(笑)
植野 それは、国立の議員たちもそうだったよね。知り合いの議員も多かったんだけど、「そんなこと知らなかった」って。

■当事者を発掘する

宗像 それから集会を開いて、佐藤文明さん(フリーライター)と、須田桂吾さん(わが子に会いたい親の会)に話をしてもらいました。この問題は戸籍にかかわることだろうと思っていたので、その面から佐藤さんに話してもらい、また須田さんは「引き離し」ということを強調していたので、それを社会に出してみようと。で、その集会に当事者が四十人ほど集まってくれて、その人たちに僕がハガキを出して、そのメンバーで「くにたちの会」ができたわけです。
植野 その集会で、「当事者がこんなにいるの」ってびっくりしたんですよ。私、それまで十年間で、当事者といわれる人に会ったの一人だけだったから。
宗像 そのときに、署名活動をやったんですね。それが一回目で、いきなり千筆を超える署名が集まった。国立はもともと市民運動に対する理解がある土地なんだけど、その中にどうやってこの問題を投げかけていくか。そのひとつが署名だったんです。
植野 そのなかで、白馬村(長野県)からの署名がとても多くて驚いた。二~三百あったんじゃないかな。
宗像 僕らの運動の原点には、当事者だけじゃなくて、いかにそれ以外の人たちの支持を得ていくのかということがあるんですね。当事者がまとまって、足並みを揃えて運動をしていくだけじゃなくて、自分の周りの人間にどうやって訴えかけていくのか。それを念頭に運動を進めてきたんです。
植野 最初、私が宗像とこの話をしたのはおととし(二〇〇七年)の九月かな。彼が別の市民運動のデモを終えて、雨に降られて、集団で打ち上げみたいな形で「かけこみ亭」(史さんがほぼ常駐する酒場)に来たんですよ。そこで、宗像が子どもと別れ別れになる話を聞いて「私なんか十年以上会えてないんだから」って慰めるみたいな話をしたのね。それで、宗像もはじめて私がそういう状況にあることを知ったわけ。で、その場所に居合わせた松戸のTさんっていう人がいて、その人はこの問題と何の関係もないんだけど、それからずっと集会とか、ことあるごとに参加してくれたのね。
宗像 そういう支援してくれる人の存在をいつも感じていないと、運動っていうのは支持を得ていけないと思うんですね。で、それから「全国ネットワークをつくろう」と。その頃は面接交渉連絡協議会が国会で勉強会をやっていたので、それとは違う動きを当事者がつくっていく必要があると思ったんです。当事者が声を上げようということで呼びかけて、国立公民館に集まって「全国ネット」を立ち上げました。これは、当事者グループが連合して何かをするというよりは、個人や団体が趣旨に賛同できる枠組みをいかに広げられるかっていう感じだった。
植野 いかに大きくみせるかっていう。
宗像 まあ、エリマキトカゲだよね(笑)。でも、思いのほか、テレビ取材がきたり、棚瀬孝雄さん(弁護士)と知り合うことができたり、成果はあったよね。そのあたりから関わっている苅谷さんは、どんな感じでした?
苅谷 僕はあの頃、離婚調停をやっていて、それが終わって「当然、子どもには会えるんだろうな」とは思ってたんです。それが全然かなわなくて、子どもに会えないまま、半年が過ぎて、十ヶ月が過ぎて……。「これは絶対おかしい」と思うわけですよ。で、何か行動しなくちゃと思っていて、こことは別の団体に入ったわけだけど、そこで宗像さんの動きを知って参加したんです。最初は、当事者をいかに発見して増やすかというのが主眼だったと思います。やっぱりみんな知らないんですよね。地元の議員なんか回っても、この問題を知らないし。そんな中で、だんだん人数が増えて、活動も盛んになってきて、行動も早いしね。少しはこの問題を周知させることができたのかなとは思ってます。
宗像 僕はこの運動を始めるときに「十年ぐらい腰を据えないとダメだろう」と言ったと思うんですけど、その一方で、最初の一年ぐらいは盛り上げるために多少無理をしないとダメだろうとも思ってた。だから、僕がこれまでやってきた市民運動の十年分ぐらいのノウハウを一年でやり切った感じなんですよ。
植野 やり切ったというか、使い果たしたって言ってたよね(笑)。話は戻るんだけど、三月二〇日の集会のあと打ち上げやってて、宗像が誰かに「子どもに会えたら、もうこの運動やらないんですか」って訊かれたの。宗像、完全に言葉につまってた(笑)
宗像 「そのとき考える」って逃げたけど。
植野 で、「私が子どもに会えるまでやめたらダメだよね」って言ったら、ものすごい暗い声で「はい」って答えた(笑)。これ、裏話ね。

■過去の運動をふりかえって

宗像 話を戻して(笑)、僕は直接行動主義だから、言いたいことを言うのが基本だと思うんですよ。市民運動でいろいろやってきたけど、この問題の当事者には、裁判所に文句をいうとか、議員に陳情するとかいう回路が経験として培われていないんだなと感じましたね。この運動についていえば、当事者は自分の問題が解決すれば、それはそれでいいわけですよ。でもそれとは別の側面で、自分は何がやりたいのか、どういう人間関係や社会をつくりたいのかっていう運動の核になるべき問題があると思うんです。それについての議論がいまひとつ深まらないまま、運動が先行しまった部分がある。それは、いま振り返ってみて言えるね。
運動が盛り上がるとみんな元気になるんですよ。声を上げたり、行動することが自分の境遇を楽にしてくれる面もあるしね。それは悪いことではないけれど、この運動はすぐに効果が上がるわけではないし、自分が子どもにすぐ会えるわけでもないし。そういうなかで、どう腰を据えていくのかが大事になると思う。鵜飼さんはどう思う?
鵜飼 私はすぐに効果があったのね。六月(二〇〇八年)の終わり頃に「くにたちの会」にはじめて行って、次が七月の発足集会だったのね。それも終わりの三〇分ぐらい居ただけで、もう帰ろうかなと思ってジュース飲んでたら宗像さんに見つかって、「デモやりますから帰らないでください」って言われたのね。ちょうどその頃、子ども(イラン在住)と電話で話ができたんです。それまでは全然電話に出てくれなかったのが、やっと出てくれて。天にも昇るような気持ちで、でも「これ一回で終わりじゃないか」とか「本当に子どもが私を受入れてくれるのか」ってビクビクしながら話してて。そうしたら子どもが「十一月の誕生日に来てほしい」って言ってくれて。いろいろ問題はあったけど、結局、十一月には子どもと五年ぶりに会えたんですね。
だから、この運動に参加したことは私にとって大きな転機でした。それまでは、夫婦とか離婚とか、そういう問題の文章を読むこともイヤでできなくて。日野市に請願をあげるときも、宗像さんが文章つくってくれて私の名前入れただけなんだけど、その文章もつらくて読めなくて。読まないで提出しちゃいました(笑)。そんな中で、議員さんに話をしたら「ああ、ちゃんと聞いてくれるんだ」って驚いたりして。これが個人の問題だけど社会問題なんだとは、私は全然思ってなかったので、受け入れてもらったことにびっくりしたし、すごい元気になりましたね。私の場合はすごい恵まれていて、最初に会った議員さんが理解してくれて「これは人権問題だ」って主張してくれたし、次に会った議員さんも全面バックアップしてくれたんです。結局、自民、公明、民主、共産が紹介議員に名前を入れてくれて、その時点で事実上、全会一致の採択が決まったんですね。これは日野市だけだと思うんだけど。そのときは、何もわからないでただ動いた感じだったんだけど、いま考えると不思議だし、運命みたいなことも感じるし。で、十月の半ばぐらいに八王子の家裁に行くことになって、前の日に宗像さんから「拡声器を持っていってくれ」って電話があったんですね。私、体力的にも弱ってたし、ヨロヨロしながらバスで運んだんだけど、なんかあれを運んだことで性根が座ったっていうか。
一同 拡声器で?(笑)
鵜飼 そうなの。あれから欠かさず行事にも出るようになったし。長くなったんで、望月さん、どうぞ。
望月 僕は発足集会のとき、はじめて参加したクチです。それまで、一回だけかな、「わが子に会いたい親の会」に出ていて。そこで、宗像さんの集会の情報を得たんですね。どんな団体なのか、まったくわからなかったけど全国組織ができるということで行きました。
個人的な状況をいうと、その頃はまだ子どもに会えてました。ただ親権の問題とか、調停の過程で相手が話し合いたくないというだけで不調になってしまって、当時の私としては策が尽きかけてました。ともかく相手がイヤだというと話にならない状況で、すごく絶望していました。それは「会わせてくれ」とか「もっと回数を増やしてくれ」という調停じゃなくて、当時、元妻と今は子どもの養父になっている人間が不倫関係にあって、それに子どもが付き合わされていたんですね。「お父さんには黙ってなさい」と口止めをされたり、嘘をつかされたりして、子どもが生爪をはがすような自傷行為をしたり、私と面接中に下の子がうっかり口をすべらしたのが原因で兄弟げんかを始めたりして、それがつらくて……。親として「子どもをそういう目にあわせるのはやめてくれ」っていう調停だったんですね。それも一切話し合う気がないことで。自分のエゴを主張するためじゃなくて、子どもを守るための調停だったのに、家裁というのは「話し合う気がない」というだけで不調にするのかと。すごい憤りと絶望感を感じていたので、何か個人以外のアプローチを探さなきゃいかんという所に、この発足集会があったわけですよ。何をどうという具体的にはわからないけど、行ってみたらテレビカメラは回ってるし、有名な弁護士さんはしゃべってるし、フランス大使館の人は来てるし。「なんか本格的だなぁ」という印象はもったんですね。その意味では、宗像さんのエリマキトカゲ作戦、僕に関しては成功でしたね(笑)。さっそくその場で賛同金を払い、生まれてはじめてデモに参加して。すごい魅力的だったんですよ、デモ行進が。とにかく憤りが鬱屈してたんでしょうね。結果でいうと、それが発散できたんでしょうけど。
鵜飼 望月さん、泣いてたよね。
望月 そう。「子どもに会いたい」って叫ぶだけで、もうボロボロ泣いてるんですよ。声が出なくなるぐらいに叫んでいて。一種、異質なカタルシスを感じながらデモ行進をした憶えがありますね。それからさほど間をおかずに、宗像さんから電話があって、取材に応じて、「このままじゃ終わらせない」とか「風穴を開けますよ」とか語ってる自分がいるわけですよ(笑)。で、家裁の申し入れに参加して、ビラ配って。どれも全部はじめての経験なんだけど、マイク握るとペラペラしゃべってる自分がいるわけですよ(笑)。だから、やっている自分に救われているというか、行動そのものに救われているような“行動療法”的な参加の仕方でしたね、あの頃は。とにかく自分がいままでできなかったことに一矢報いるというのが、自分の原動力にはなってました。

■個人的な問題が社会問題

宗像 やっぱり「個人的な問題だから我慢しなさい」って言われつづけてきたわけですよ、会えない親は。だけど、そうじゃなくて「個人的な問題が社会問題なんだ」という回路をつくっていくためには、個人的な問題をいっぱい語っていかなければならないだろうと思ってました。そういう意味では、最初の一年間はそれに集中していたわけです。「個人的な問題がどうしてこうなってるのか」を整理して相手にぶつけていく。この問題の相手っていうのは、会わせない親だけじゃなくて、法律をはじめとするシステムなんだということに収斂していく過程だったのかなと思います。その辺、杉本さんはいかがですか。
杉本 僕がこの会に参加したのも望月さんと似ていて、調停に絶望感を抱いていたんですね。こっちは「普通はこうだよね」といっても、全然それは通らなくて、親権者が拒否すれば何の手の打ちようもない。僕らが向かい合っているのは調停委員であり、調査官なんだけど、その向こうにいる裁判官、裁判所、あるいは法というシステムがどうしようもなく動かしがたいものとしてあって、それに対して僕らは何もできないんですね。僕は調停の過程でそれをみて無力感を感じていて、結局、ほぼ相手方のいいなりに「二年間は面接交渉を望まない」という調停に合意してしまったんです。
それ以前から、母親にこの会の記事が載った新聞を渡されたり、国立の駅頭で署名活動をされているのを見て僕も署名しましたけど、会に参加するところまでは踏み出せなかった。で、いざ自分がもう何もできない無力感に打ちひしがれて、この会の住所を調べてみたら「なんだ、ここじゃん」でウチから歩いて五分のところだった(笑)。若干の運命的なものも感じつつ、来てみたわけなんですけど……。事前に当事者の自助活動という認識はあって、自助というとアルコール中毒のAAの会とか、当事者同士が慰め合うとか、苦しい立場を励ましあうみたいなイメージがあったんだけど、思ったよりも開かれた活動をめざしているようで、「こういう団体もあるのだなあ」と思ってたら「明日、東京高裁の申し入れがありますから行きましょう」といわれて、「はい、はい」といいながら次々くりだされる行事についていったわけです。 で、この種の問題は「個人が自分のなかに抱えるしかない」「誰に話していいかわからないし、誰に話しても理解してもらいない」だったし、それを話して理解してもらえたのはすごくありがたかったし、子どもに会えないっていうと、それは恥ずかしいこと、隠すべきことなんだっていう感覚を僕自身がもってしまっていました。でも、僕らが主張しているのはあくまで正当な人権であって、「なんでそれがここまで虐げられているのか」という風につなげていくことが重要だし、可能なことなんだと感じつつ、活動に参加しているのが僕の現状でしょうか。
宗像 杉本さんが言った「開かれた活動」というのは、自助活動だけじゃなくて、政治的な活動をさしている部分だと思うんですね。最初、議会への陳情から始まって、国会請願署名とか、国会議員と勉強会を行っていき、「騒げば変わる」と考えてたのが「本当に変えることができるんじゃないか」と思うような広がりを感じつつ、組織も大きくなっていろんな人が入ってきました。そのことによって、いわば政治活動に特化することで、さまざまな変化が起きてきたと思うんですよね。ある種、我慢しなきゃいけないというか。政治家と会うんだから云々、国会勉強会を主催している団体だから云々、代表らしい行動をしてほしい云々……。
どこか会の運営のために自己犠牲を強いられる部分が増えていったというか。結局、どの団体もそうかもしれないけど、活動をしにくる人と、居場所を求めてくる人に二極化されていくのかもしれないね。
植野 会が自分に何かをしてくれると思ってるのよね。十二月(二〇〇八年)の合宿でも、宗像は勉強主体のスケジュールを組むんだけど、「もっと遊ぼうよお」みたいな人も多くて、なんか違和感を感じた。
杉本 居場所っていうか、サークルのノリだね。
宗像 結局、組織運営に対する認識の違いが出てきたんだよね。「目的が一緒なんだから仲良く足並み揃えて」っていう考えが主流になってきたっていうか。
苅谷 この種の問題って、話す相手もいないし、同じ境遇の人間が集まれば話ができるじゃないですか。そういう場を大事にするのか、あくまで活動して社会を変えていこうとしてくのかという所で溝ができた感じはしますね。

■共同親権・共同子育てをめざして

宗像 当初は面会交流を打ち出していたけど、やっぱりめざすところは共同親権・共同監護だとなっていったときに、なかなか議論が深まらなかった。会の運営に汲々とするだけで、動きが空回りしていった印象がありますね。
それで、新しい会(共同親権運動ネットワーク/略称:kネット)を立ち上げたということになるんだけど、この問題について「みんなが想定する共同親権ってどういうものなのか」という議論がまだ掘り下げられていないと思うんですよ。民法の中にはいろんな差別があって、婚外子とか、300日とか国籍の問題とかあるんだけど、単独親権というのは親にとっても、子どもにとっても差別を生む温床になっている。さらにいえば、入籍していない事実婚のケースまで視野に入れる必要もあると思うんですね。
民法上のあらゆる差別に反対していく中で、単独親権制度について声をあげていく形をとる必要があると思うんだよね。
杉本 非常に大きな話になってきたけど、離婚は年間十数万件でもはや例外としては扱えないし、さまざまな法による差別の中でも、この親権や子どもの監護は突出して不合理であるといいやすい問題ではあるよね。
宗像 これまでは、その不合理さが知られていなかったし、知られても不合理だとは認められていなかったんだよね。
植野 ある人が国会請願の署名を同僚に頼んだら「俺はどんな署名もしねえんだ」って突っぱねられたんだって。で、最近、その人から電話があって、相談があるって。「女房が子ども連れて出ていった」っていうの(笑)。当事者にならないと、わかんないんだよねえ。

そして「第二ステージ」へ

宗像 そういう意味では、運動の第一ステージとして「実態を表に出す」ことがある程度は成功したと思うんですよ。その先に、どういう運動を展開していくのか。その運動の周りにはどんな人がいて、どんな人が支持してくれるのか。それを深めていかなくちゃいけないと思うんだよね。これからの活動については、どうですか。
苅谷 いままでと、これからという意味では、僕には三つあって、一つはこの問題を個人的にも社会的にも解決していくための運動。もうひとつは、この問題を広く世間に知ってもらうための活動。あとひとつは、活動にあたっては信頼関係が大切だなと。(笑)
望月 意味深な発言ですね。(笑)
植野 たとえばシングルマザーやDV被害者の人たちと、どう折り合いをつけていくのか、とか。いろんな対立軸が出てくると思うのね。いろんな立場の人がいるから、つなげる所からつなげていきたいなとは思う。
望月 最近、戸籍法とか民法とか深い議論が出てくることが多くて、問題の構造解析という観点からそのルーツを探求することには賛成です。
また実際の活動としては、面会とか、親権とか、連れ去りとか、直面している所からのアプローチは軸足として持ちたいなと思います。ただ、議論や理論武装になったときは問題のルーツの探求から得られた見地みたいなものはものすごく強力な武器になると思うし、立場の違う人との話し合いにおいてはそのルーツの共通認識という基盤に立てないと、立場の違う人間同士の衝突になってしまう可能性は高いと思いますね。
宗像 民法上にさまざまな差別はあるけど、その中で僕らの守備範囲はここだと明言できるし、主張できると思うのね。当事者でもあるし、議会や裁判所に対してこれだけ活動してきたわけだから。その僕らの守備範囲と民法全体の差別構造をどうリンクできるかということでもあるよね。
鵜飼 ブログで監護親になってる母親たちの意見をみることがあって、「子どもに会わせろ」という要求自体が彼女たちにとってはDV的なものに映るのかなと思うことがあります。これは女性である私たちがやるべきなんだろうけど、そういう離婚後のDV的な女性心理とか、真剣に勉強しなきゃと思ってます。
杉本 僕がここに来てるのは何なんだろうと思うことがあるんですけど、例えていえば「戦争被害者が起こす反戦運動」みたいなものかなと考えてます。実際に、自分が当事者として被害というか、非常に切実な問題に直面したことでしか知りえなかった、この国のある側面をみて、これからも同じ問題に直面する人が毎年数十万人増えるのであれば、それはやりきれないし、そこで僕らがアクションを起こすことでそれをいい方向にむけることができればと思っています。
宗像 最後になりますけど、僕は最近、法律はじめシステム自体はおかしいし、裁判所は変な決定しか出さないんであれば、裁判所の決定を守る必要があるのかと思うんですね。日本の家裁の場合、決定に強制力はありませんから。結局、裁判所の決定に従うかどうかは僕らの手中に収められているわけですよ。
そういう意味で、多様性っていうのは僕らの武器だと思うんです。いろんな人がいろんな事情を抱えてるし、そういう人たちの事情をくみ取れるような運動の仕方とか、法律をめざしていかないと楽しくないと思うんですよね。だから第二ステージでは、そういう楽しさを求めていきたいと。「可哀想な親作戦」の終結宣言です(笑)
(編集:杉本、宗像)