美談のために別れを作る

宗像 充(並木道の会)

 先日テレビで「志村どうぶつ園」を見ていると、芸能人の一人が動物園に移される前に、子グマの飼育にチャレンジしていた。「お別れの日が来ました」とナレーションが入って、別れのシーンに一同涙する。別れの美談を作り上げるために人間への愛着を持たせる。残酷と思う。一昔前は生き別れになった親子の20年ぶりの再開物語が、こういうお涙頂戴ものの典型だった。子どもが一人で親と別れたわけではない。

 主に離婚をきっかけにして、子どもと会えなくなった親の運動をはじめて4年になる。自分が子どもと会えなくなったのがきっかけだ。今でも裁判所の決定で2ヶ月に1回2時間半しか子どもと会えない。はじめて会った人にそう言うと、「宗像さん、刑務所にでも入ってたの」と真顔で聞き返される。この頻度は家庭裁判所の一般的な基準だ。

昨年、民法が変わって「面会交流」が明文化された。千葉家裁の若林辰繁裁判官は、この民法改正について調停で指摘した父親に「法務大臣が国会で何を言おうと関係ない。国会審議など、これまで参考にしたことは一度もない」と説明した。また、「裁判所職員のぶっちゃけ時事放談」というブログでは、ぼくたちは「当事者のキチガイ率も異常に高い」と解説されている。たしかにぼくも裁判所に文句をつけることがある。「お前のイカレ話を聞いていると、他の仕事が全部ストップしちまうから、さっさと消えろ」とその方は書いておられた。衆議院議員の井戸まさえさんは、オーストラリアのテレビ局に、連れ去りについて「当たり前の文化」とアピールしていた。子育てしたいというぼくたちの願いは「イケナイコト」。やっぱり憲法大事よねとぼくも思います。

 「反改憲運動通信」No.07「私も一言」158