片親疎外と「縦割り家族」
宗像充(共同親権運動ネットワーク)

DCI日本「子どもの権利モニター」(2013年1月25日、115号)

 ぼくたちは、子どもと離れて暮らす親のグループで会員、賛同者数は現在180名ほどいる。「子どもに会わせてもらえないなんてよっぽどひどいことしたんでしょ」というのが、世間一般の認識なので、なかなか話を聞いてもらえる機会がなかった。今回、DCIのほうでその機会を設けてくださり、たいへんありがとうございました。
子どもの権利条約9条には親子不分離の原則が載っている。日本では離婚時にどちらかの親を親権者と定めなければならない単独親権制度をとる。これが親子が親子のままでいるための、法的な障害の一つであることをぼくたちは訴えてきた。

「単独親権ドグマ」
 冒頭、長野県白馬村で東京の母親のもとから逃げてきて、親権のない父親のもとに身を寄せたA君の事例を紹介した(「週刊金曜日」926号)。A君は母親による連れ去り、その後の離婚(親権者は母)、交流妨害によって父親となかなか会えない状態に置かれた。家出後、役場は親権者の意向を受けてA君の住民登録を拒否し、5年生の教室では「見学扱い」とさせられ教科書をもらえないなどのいやがらせを受けた。父子は村に対し損害賠償の訴えを起こしている。A君には高校生になる兄がいるが、母親の意向を受けてA君を再度連れ去ろうとしにきたこともあり、A君は兄とも会えなくなった。母親に会おうとしないA君のわがままを批判するのは簡単だ(父親も会わないでいいとは言っていない)。しかし、父親と引き離される行為は、耐え難いほどのつらい体験だった。A君は母親が父親と引き離したことを謝って欲しいのだ。ぼくはこの事例を、父親が親権者でないことによって、子どもに不利益を負わせることが肯定される一例として取り上げた。親権者でないことによって、学校の公開行事への参加を拒まれる親は少なくない。それと同根の差別であり、不利益は子どもも負う。これを「単独親権ドグマ」と呼ぶ。

子どもの意見表明権の歪曲
 里帰りしていた間に父親に子どもを連れ去られ行方不明になった母親には当日話していただいた。彼女はその後離婚裁判になったのだが、その間たまたま子どもの住所がわかって、子どもの情報を開示するために役所に行ったりした。役所は子どもの意向を確かめられないので情報を教えなかった。その際、持ち出された理屈が「子どもの意見表明権」だった。彼女は週に1度子どもの学校の門前で、通学途中の子どもを黙って見守り、子どもも気付いている。
 彼女の周囲は「見て見ぬふり」をしてきた。学校も役所も、そして裁判所も面倒なことに巻き込まれたくない、という態度で、それを「民事不介入」や「子どもの福祉」、「親権がないから」といった言葉で正当化してきた。
 特に、裁判所に行けば正当な判断がされる、そこで決まったことは守られるはず、という認識は間違いだ。それが片親疎外を世間が認識しない大きな要因である。現在、家庭裁判所の子の監護者決定時の優先ルールは「実効支配」(現状維持)である。母性優先もその原則を犯さない範囲で適用されるので、先の母親のような事態も生じる。面会交流はよくて月に1回2時間、同居親が拒むとゼロ回答になることも多い。裁判所はゼロ回答にして、別居親が諦めてくれるならそれが「楽」だったのだ。東京家裁の裁判官は一人で4、500件を受け持っているので、事例に応じた判断を下していれば仕事にならない。「法に事実を当てはめる」ようなずさんな決定が少なくない。審判前には調停に付されるが、会わせたくない親には「月に1回くらいいいじゃない」と言い、会いたい親には「月に1回より会えないよりましでしょ」と言って月に1回になる。不服で審判になっていい結果を出そうものなら、みんな審判を目指すので、やはり前例踏襲は変えられない。こういう実態だから、弁護士も別居親の弁護は「負け戦」でやりたがらない。同居親の弁護に際しては、なるべく調停を長引かせ、その間に養育費や慰謝料を求める。その間に子どもとは引き離されているので人質取引になる。

子どもの人格は考慮されない
 特に、家庭裁判所は戸籍制度の想定する家族の形(「縦割り家族」とぼくは呼ぶ)から外れる場合の審査機関、つまり「家制度の門番」なので(逆に再婚養子縁組などその型にはまる訴えは役所の届けでいい)、面会交流は恩情であって、その権利性を認めない。この家の秩序を守ることを、民事不介入と呼び、刑事的な介入が避けられるので、DVや虐待、連れ去りが離婚という民事的な自力救済の中で扱われ、弁護士がそれを活用してでっち上げなどが頻発する。
 こういった説明は新しいものではない。しかしその中で女性の主張が通ろうが(母性優先)、男性の主張が通ろうが(家父長制の復活?)、子どもの人格が考慮されない点は共通している。子どもの心配をしている親は、自分が親として成長する喜びを知っているからこそ、それを否定されることは、自分を否定されたかのような思いを抱く。親は子どもに親にさせられるのに。
 この間、面会交流が民法に明文化されたり、裁判所や行政が支援や啓発に取り組んだりと、若干の前進がある。ぼくたちは自分たちの不始末を何とかしてほしいから法改正を訴えているわけではなく、法がぼくたちが親子でいるのを妨げるので、その除去作業をしているまでだ。その辺が多くの人がこの問題を当事者の問題として片付ける一因だと、ぼくは思う。