親子が親子であること、それは人権
宗像充(共同親権運動ネットワーク)

「宗像さん、刑務所に入っていたんですか」
 と聞かれて苦笑した。離別によって子どもと引き離され子どもに会いたい別居親の運動をはじめた。
当初家庭裁判所の決定では2ヶ月に1度2時間(今は4時間)の交流時間だったので、
知らない人はそう思う。
しかし家裁に子どもに会いたいと申し立てた調停で、
実際に会える約束が取り付けられるのは割合でいうと半分。
その半分のうち1月以上の取り決めができるのはさらにその半分。
残りの4人に3人は、ぼくのように隔月や年数回の交流頻度しか得られない。
「犬の散歩」のような交流時間を耐え忍ぶ親子は多い。
取り決めが守られるかどうかの保障もない。

「ジェンダー・ウォー」
「会えないあなたに原因があるんでしょう」と
言わなくても多くの人は思っている(原因はあるのが普通だ)。
「離婚したんだからしょうがないでしょう」という本音を漏れ聞くこともある。
問題を広く知ってもらうために原稿を書かせてほしいと頼むと、
「宗像君はいいけど、ほかの人は問題があるんじゃない」と言われる。
「そういう問題があったんだ、知りたいからぜひ書いてよ」と言われたことはない。
男は稼いでなんぼ、男の子育てなんて無理、という固定観念は今なお根強い。
一方最高裁は、子どもに会えなくても
せめて養育費を払いたいという父親の訴えを退けた。
子捨ては奨励されている。
「ひとり親」は量産され過重な養育負担にあえぎ、子どもたちは貧困化する。
日本の養育費の履行率は20%未満と15年間変化がない。
会えない親は「会わせないのに金を取るのか」と憤る。
もちろん無責任な男の理屈は正当化される。
多くの国が共同親権制度へと脱皮した中、
日本では離婚時に子どもの親権をどちらかに決めなければならない、
という単独親権制度をとる。
離別時の子の奪い合いの激化が、男女の本音を表面化させた。
実際、家庭裁判所に面会交流を申し立てる親の数は、この10年間に4倍となった。
アメリカでは親権をめぐる親どうしの壮絶なたたかいが
「ジェンダー・ウォー」と呼ばれた歴史がある。
双方の親が離別後も養育時間をシェアできるように基準を作り、
取り決めを義務化する。
そのためには第三者による支援も必要だと思って会を作って運動を始めたら、
同じような親たちがわんさと出てきた。
反発も大きかった。
同姓の強制や婚外子差別と同じく、単独親権制度を強制する法制度は違憲だ。
家制度、つまり戸籍が差別を合理化してきた。
子どもは家に囲われ、家という門の外に出されたぼくたちは「門外漢」となる。
ぼくたちは「親の権利を振りかざ」す危険な団体だったのだ。

「息子が誘拐された、犯人は妻だった」
 というコピーのポスターを友人が作った。
夫が妻を殴っても暴力は暴力である、同じく親が子どもを連れ去っても誘拐は誘拐だ。
ともに犯罪だ。
日弁連は子の「連れ去り得」を許さない国際条約(ハーグ条約)が、
国内の法制度に適用されないようにと声明を出した。
日本国内で引き離された親子は国際的な人権保障の枠外に置け、
「Viva! 連れ去り」という驚くべき差別声明だった。
当時の会長の宇都宮健児が選挙に出るというので、
年間100日以上の面会基準について行政がガイドラインを示すのはどうか、
と聞くと
「一般論としては国際水準は正しいが、
日本の場合は子どもの連れ去り(連れ戻し?)やDV加害親からの二次加害を生みやすい」と答えた。
とりわけ日本の親(多分男)は強暴なので、法の埒外に置くべきだ、と言いたいようだ。
今の日本のルールは、連れ去って親子関係を絶てば親権を得られるというものだ。
相手方の親子関係の良好さは親権争いで不利な材料になる。
責任感が強く、子煩悩な親ほど引き離されやすい。
嫌いで別れたのだから、親は相手の悪口を言うのが普通だ。
会えない子どもは「会いたくない」と言い出す。
学校や幼稚園には無理やり行かせる親が、
このときだけは子どもの意思を尊重する。
これら情緒的虐待は片親疎外と呼ばれ、子どもたちの心を壊す。
このまま子どもと会えなくなるのでは、という別居親の恐怖感を理解しない暴力防止策は無力だ。
理不尽な状況に投げ込まれた親たちの相談を受け、
ぼくは子どものために理性的な判断をするように促してきた。
これは暴力防止の活動とは呼ばないのだろうか。
離別は親の選択だ。
しかしそのことで双方の親から愛情を受ける機会を奪って子どもに不利益を課せば、
それは婚外子差別そのものだ。   
父の日に似顔絵をもらったり、
眠い目をこする子どもといっしょに布団を敷いたり、
大好きなママといっしょに料理をしたり、
悲しいことに、そういうことをぼくたちは人権と呼んではこなかった。
(「カーニバル」6号、反天皇制運動連絡会、2013.9.10発行)