DCI日本支部「子どもの権利モニター」No.107(2011年3月25日)より

「なぜ会えないの? 離婚後の親子」宗像 充

1.「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」(ハーグ条約)についての議論

 

第三回の国連子どもの権利委員会の審査に、主に離婚を契機に子どもに会えなくなった親たちからのレポートを集約し、届けて勧告を期待した。実際には子どもの権利委員会からは養育費の問題や連れ子養子の問題点についての指摘はあったが、単独親権制度に起因する日本の深刻な片親疎外の問題については触れられず、残念な思いがした。

日本にやってきたクラップマン委員との対話集会において、日本の現状について触れながら質問した別居親の一人に対して、クラップマン委員が、「家庭裁判所を通すように」という回答をしており、伝わっていなかったのだなと、私たちの力量不足を痛感した。なぜなら、家庭裁判所に行ったがゆえに、子どもと会えなくなる事例を常日頃見慣れているからだ。

ぼくは3年前に別居親当事者となり、国立市議会に陳情を上げることから離婚に伴う片親疎外について社会的に周知する運動を始めた。

「子どもは誰とでも会えるのに、自分の親とだけは会えないというのはおかしくなあい?」

というぼくたちの問題提起は、ある程度の社会的な反響をもたらし、現在は共同親権や現実的な面会交流の法整備が必要か否かを巡って、反対賛成慎重、さまざまな意見が出されるようになってきた。実際、セールスのおじさんであれなんであれ、子どもとなごやかに会話を交わしている光景を思い浮かべれば、2ヶ月に1度2時間、365日分の12時間(1日換算で2分)という子どもとの面会はいかにも不自然というかなさけなさを感じることはある。

これでも成功事例である。家裁に行けば2人に1人の確率でしか面会交流の取り決めは結べない。そのうちさらに半分が月に1回。2ヶ月に1回はまだいいほうということになる。

私たちの運動が3年が経ち徐々に認知されてきたのとは別に、国際離婚の問題がクローズアップされてきた。日本国内の状況が国際的にも知れわたり、それは現在、「国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約」への加盟圧力という形で、日本の外交課題の一つとなっている。すでに昨年はアメリカが、今年2月にはフランスが日本非難決議を上げた。

ハーグ条約に未加盟の国はたくさんある。しかしその中でもなぜ日本だけが非難の対象として狙い打ちされるかといえば、国際離婚が増え、当事者が徐々に増えてきたということ、主要国の中で日本だけが未加盟なので目立つということともう一つ、未加盟の国でも子どもの返還に応じる国はあるにもかかわらず、日本だけが過去一度も、外国からの子どもの返還要求に応じたことがないという事情がある。その上、日本国内での面会交流が家裁という公式の手続きを通したとしてもまず難しいということがわかれば、一度日本に子どもを連れていかれれば、連れていかれた親は自分が絶望的な状況に陥ったことにそこではじめて気づく。他の国はそのような親の心情に配慮するが、日本政府は配慮しない。日本の外務省は、国際離婚の問題で日本国内で面会を拒否する親に最近直接電話するようだが、日本人であるぼくらにそういう配慮はない。

 

2.日弁連の意見書

 

つい先日、2月18日に日本弁護士連合会(日弁連)は、「『国際的な子の奪取の民事面に関する条約』(ハーグ条約)の締結に際し、とるべき措置に関する意見書」を公表した。

この意見書は、DVや同居親のことについてはさまざまに触れているが、別居親と子どもの心情については毛の先ほども思いを及ぼすことのない非情なものだ。

ハーグ条約は、国内法上違法な子の連れ去りについて即時返還の便宜を各国政府がはかり、子どもの監護権についての争いについては、もといた国の法的な手続きを経ることを定めている。また面会交流についての尊重規定もあり、国際的な子どもの連れ去りの防止を図る。ぼくは、この条約は子どもの権利条約と同様、離婚、未婚にかかわらず、双方の親から子どもが愛情を受け、育てられたほうがいいという趣旨のもとに作られた条約だと考えているが、日弁連の意見書からはそういった考えは微塵も伝わってこない。ただただ条約の悪影響を防ぐために、これだけの留保が必要だとの技術的な関心と心配ばかりが読み取れる。心配があるのはわかるのだが、「国内における子の連れ去り等や面会交流事件には適用されないことを担保法上明確化し、かつ周知すること」という項目を見ると、要するに日弁連は子どもが親に会うことなどどうでもよいと考えているというのがよくわかる。

私たちが聞きたいのは、日弁連が片親疎外という問題について今後取り組んでいくのかどうか、子どもの養育における両親のかかわりについて、今後どうしていくかの考えだ。この差別意見書は、法律の専門家というのは、現在の法秩序を維持するのに汲々とする技術屋にしかすぎないという悪例を示したようなものだ。

ぼく自身は、国内の当事者であるので、国内法の整備を求めてきた。国際的な問題ということであればこの条約が効力を持つということになると思うが、条約そのものと自分とは直接関係ない。ただ条約の趣旨はぼくらが求めている法整備と同じものなので、締結するのであれば国内の法整備と一体的に進める必要があると思う。そもそもハーグ条約の別居親の側の当事者は国外にいるのであまり話す機会がなく、国内においては、国外で指名手配されている、子どもを連れ帰った母親の側が発言することはあるようだ。世論は彼女たちの意見に耳を傾けるが、日本が会わせなくていい国だと知って、日本に子どもを連れてくる外国人の親の話もときどき耳にする。

日弁連の要望書には、「児童虐待やドメスティック・バイオレンスが認められる事案や、返還を命じた場合に子とともに常居所地国に帰った親が同国において刑事訴追を受けることとなるような事案等については、返還を命じない、あるいは執行しないことができるような法制度とすること」という項目もあるが、これでは現実的に条約を締結しても返還されることなどないのではないだろうか。

たとえば、アメリカにおいても非和解的になった夫婦のうちの一方が、子どもを連れて家を出ることは当然にしてあるだろう。日本のように母親が実家に戻ることだってある。その場合、養育権のある一方の親の同意なく子どもを連れて行った親が、2ヶ月なら2ヶ月以内(州によって期間はさまざま)に面会交流の取り決めをするという申し出を関係機関(裁判所や女性相談等さまざまにある)にしなければ、刑事訴追の可能性がある。フランスなら、2週間以上の面会拒否は軽犯罪法で対処される。子どもを連れ去って親に会わせないというのは、通常誘拐と呼ぶが、それは家族や親であっても許されないということなのだろう。DVの犯罪化と考え方は同じだ。

日本に子どもといっしょに帰ってきた親たちはこういった手続きを怠ったことになる。日本行きの航空機に乗ったとき、そういった知識がある人がどれくらいの割合でいただろう。DVなどの事例においての配慮は必要であるにしても(アメリカ政府は日米間の連れ去り案件でDVはなかったと言っている。法的に行政対応がなされるDVの範囲が日米間で食い違うようだ)、そもそも海外で刑事罰の対象となる行為を国内でどのように考えるかという議論が必要ではないだろうか。異国にとどまり困難な状況の中、別れた相手との共同養育を続けている親も当然いるに違いない。日本政府はそういった人たちの支援をどうしていくかを同時に考えていかなければならない。

 

2.国内の子どもの奪い合い状況と子どもの権利

 

国際的にも国内的にも議論がここまで盛り上がることは予想せずに、3年前、「相手の気持ちを変えるより、法律を変えたほうが早い」という軽い発想で法制化運動を始めたのだった。3年間はあっという間だったが、その間に、会えるようになった人、裁判所通いを続けている人、いまだ会えないままの人、たまに会えるようになったが不安定な面会に悩む人など、状況はさまざまだ。子どももその間に大きくなる。

現在のルールは、子どもに会う会わせないは同居親が決めるというものだ。法律ができてある程度機械的に面会交流の道筋ができるようになることを望むが、最終的には当事者間の相手への認識の変化が面会交流を良好なものにするというのも、2年間の離別後に面会を重ねてきてなんとなくわかる。会えない間というのは、なかなか相手へのおおらかな態度は示しにくいものだ。しかし面会交流が安定的にできるとわかれば、少々の食い違いや不自由さは飲み込める。それでもいつ会えなくなるかという不安はある。

別居親以外のさまざまな立場の人と、この問題で多く話す機会があったが、子どもと不本意に引き離された親が、このまま一生子どもと会えなくなってしまうのではないかと思う、その不安と恐怖の大きさはなかなか理解されない。したがって、「大きくなったら会いに来るよ」、「早くいい人を見つけて新しい人生を歩んだら」という言葉が返ってくる。

面会交流は子どもの権利であり、親の権利ではないという主張がある。養育責任は親にはあるし、もちろん子どもが親を知ることは子どもの権利だとぼくも思う。どちらかというと子どもは親に会えない環境に適応し、寂しいとは思っても、親ほど親のことを思っているかは微妙だ。親を忘れもする。しかし、子どもに会えない親は大きくなった子どもではなく、今の子どもといっしょに過ごしたいのだ。子どもの成長にかかわるということは、自身も親として成長するということだと思う。親の権利というのは、親になる権利ではなかろうか。

子どものために親が我慢することはある。しかし親が子どもに会えない寂しさを言うことがそれほど悪いことなのか、ぼくにはわからない。逆に、子育ては母親にまかせて、仕事にいそしんだり単身赴任する父親は賞賛される。

一方、面会交流の議論をする場合、親の権利を強調しすぎるのはいかがなものかという意見が、弁護士やシングルマザーの立場の方から発せられることもある。その方に子どもがもしいるのであれば、一度その方の子どもを児童相談所に入れて、会えない状態になってともに議論したいと思う。離婚は虐待だと考えれば、離婚時においても親どうしの話がつかなければ、子どもは施設に置いて、話がつくまでそれぞれ面会交流すればいいのだ。そうすれば、たしかにそれぞれの親が面会交流するわけで、親の権利ではなく子どもの権利だと言える。

社会的養護で「子どもはみんなで育てる」とか言いつつ、親に子どもを捨てるように促すのだ。これでは、DVの加害者ならずとも、相手への憎悪から事件になるのは当然だと思うし、実際事件になる。事件を起こせばやっぱりDVの加害者だからとなる。これまでは子どもに会えない親というよりも、子どものことは忘れて早く次ぎに行きたいと考える父親がむしろ問題にされてきた。養育費も払わない。現実的には双方ともに被害者意識が強いので、子どもに会いたいにしても相手と関わり合いになりたくないというのは別居親も同居親も同じである。子どもに会うのがそんな中困難であるとすれば、次のステップにと考えるのは無理もない。子どもに会いたいと言ってもDVだからと遠ざけられる。ぼくはこれまで子どもに会いたい親はたくさん見てきたが、別れた相手と会いたいという親をほとんど見たことがない。そして相談に来る人のほぼすべてが、精神的DVを離婚理由として裁判所では相手方から挙げられる。

財産は分けられるけど、子どもは分けられないから、養育時間を分ける。これが共同養育の考え方だ。日本では、子どもと毎週会わせていた親が、周りから離婚したのに会わせるなんてと言われて、面会を減らすケースがままある。

3年間、親権を失えば(あるいは子どもと一度離れれば)子どもと会う保障がないと言い続けてきたが、この事実が知られれば知られるほど、奪い合いの事件は激しくなっていくだろうと予想した。実際そうなった。一度目の連れ去りは問われないが、二度目の連れ戻しは最高裁で誘拐罪が適用されるという判例があるため、ますます知識のある人の連れ去りは横行する。先に取った者勝ちだからだ。今においても、弁護士が教唆して子どもの連れ去りがなされたであろうと考えられる案件は少なくない。3年の間に、子どもに会えなくて自殺した事例は、ぼくの知っているだけでも2件ある。

3年間子どもに会えない親たちの話を聞き続けてきた。昨年から今年にかけては、別居親団体の専属スタッフとして相談に当たった。子どもに会えない親といってもさまざまである。男も女も性同一性障害の方も、暴力の加害者も被害者も、離婚前の人も未婚の人も、再婚家庭の離婚のケースも。もちろん、こういった当事者の多様性は性別を別にすればシングルマザーの団体においても同様だろうと思うが、法の改正においては、消極的である。

原則共同親権になれば、少なくとも法的には婚外子と婚内子の区別はなくなるにもかかわらず、婚外子差別の問題に取り組んできた弁護士や団体が、共同親権には反対する。

 

3.「縦割り家族」の一歩先へ

 

昨年の第三回子どもの権利委員会の勧告においては、すべての養子縁組について家庭裁判所を通すようにという勧告が出された。これは連れ子養子が親権のない親に同意を得ることもなくなされる現在の民法を念頭に置いた勧告である。再婚相手が子どもの責任をも引き受けるという面では、再婚における養子縁組自体が即座に否定されるということでは必ずしもない。問題は、連れ子養子に伴い、家庭裁判所は親権のない親と子どもとの関係を絶つ運用をしてきたということだ。

「私再婚することにしたの。子どもも彼になついているし、だからもうこの子とは会わないで」

なんてセリフが一昔前のドラマでは当たり前に飛び交っていた。家庭裁判所は親権者が再婚養子縁組した場合、別居親からの親権者変更の申し出を認めないばかりか、面会交流すら認めない決定をこれまで出し続けてきた。それだけならまだしも、別居親の中では、相手の再婚後に親権者変更の申し出をして、窓口で受理すらされないという事例を多く耳にする。相手が再婚してしまえば、子どもが手元にいない親には裁判を受ける権利すらなくなる。これはもちろん、子どもにとってみても、親の再婚と同時に親も変えられるという話になるわけだから、乱暴である。民法のどこにもそんな規定はないにもかかわらず、家庭裁判所は戸籍をベースにした「縦割り家族」のモデルを、家裁にやってくる人に押しつけ、それが社会的な常識として無批判に受け取られる。「縦割り家族」モデルでは、親はワンセットでなければならず、それが子どもにとって一番いいという都市伝説がはびこっている。

現実的には、結婚が家族が増えるということであるとするなら、親の再婚に伴い子どもの親も増えていくことになる。

フランスではステップファミリーが増えることと少子化問題の解決が因果関係があるかのように日本でも紹介されることがある。実際には、片親疎外を容認したままステップファミリーが増えている現状は、再婚に伴う親子の断絶という悲劇が日々繰り広げられているということである。

二人で子どもをなしたのだから、二人で子どもをみるのが原則で、他方の親にはもう一方の親に養育への関与を求める権利がある、これをぼくは共同養育請求権と呼ぶ。養育費を払わない親に養育費を請求すること、子どもの認知を拒否する親に認知を求めること、子どもに会いにこない親に養育への関与を求めること、そして、片親疎外の親に子どもとの交流を求める権利も、向きはそれぞれ違うにしても共同養育請求権としてくくられる。

こういった権利を法的に保障していくとなれば、共同養育のための親責任の強化として、共同親権に向けた民法改正が議論されていくのが筋だろう。親の離婚再婚、結婚しているか否かにかかわらず、子どもの養育責任は免れることは難しくなる。と同時に子どもの養育について困難を抱える家族をどう支援していくかという視点も必要になる。これらは、すでに子どもの権利条約全体の趣旨の中から導きだされることでもある。

離婚に伴う親子関係の断絶や、シングルマザーへの最低限の生活保障という文脈では、こういった問題はもはやすでに論じるのが困難だ。戸籍制度をベースにした安上がりな家族政策においては、離婚はあるにしても、再婚と同時に子どもは新しい「縦割り家族」の中に閉じこめられ、「ひとり親」も別居親も、それぞれ新しい「縦割り家族」を形成することを社会的に要請される。しかし、シングルマザーへの公的助成が離婚の増加とともに減らされることが議論される現在、シングルマザーを量産する、単独親権制度に基づいた別居親を無視した離婚政策はもはや限界に至っている。

ぼくらのところに最近相談に来る人の中には、再婚家庭の離婚という事例も複数あり、彼らは、相手の連れ子として自分の養子にした子どもとの関係を、離婚するにおいてどうしていくか、真剣に悩んでいる。これまで血のつながった子どもと分け隔てなく接してきたのに、親どうしはともかく、親の離婚で子どもとの関係を絶つということがその子にとっていいことなのかどうか。世間は、離婚したんだからと子どもとの縁切りを当然視する。相手も血のつながった子どもも含め子どもに会うことを拒否する。離婚は成立した。しかしそのお父さんはその子との養子縁組を解消しないままでいるという。そうすることがその子にとっていいことだとは、どうしても思えなかったからだという。

海外からの批判に対して、弁護士たちが法務省とタッグを組んで慣習や文化を背景に抵抗している中、時代は、法や社会の二回り先を歩いているのだ。

 

4.法整備に向けて

 

弁護士たちは、今でも相手との関係がこじれているカップルばかりなのに、共同親権になったら離婚後ももめごとが長引くから、とんでもないことだと言ったりもする。

しかし実際、相談を受けている中で、弁護士が入ったばっかりにそれまで子どものことを考えてと面会交流をしていた親たちが、面会を拒否し、代わりに慰謝料や養育費の増額を求めるという事例が少なくない。子どもと会いたかったら離婚に応じなさいという人質取引は、弁護士の中では日常会話なのだろうかと疑ってしまう。これで「人質司法」を批判するのだから茶番である。

別居親が子どもとの面会を求め、それを同居親が拒否して別居親が感情的になれば、裁判所は「高葛藤」として「子どもの福祉」の観点から面会を制約する。ぼくらからみれば、同居親の「拒否感情」にしか見えない。

家庭裁判所出身者で作る家庭問題情報センター(FPIC)という団体が、面会交流の支援をしているが、月に1回しかしない支援しない規定があるため、家庭裁判所も第三者機関を通じた面会には月に1回しか認めない。

親が相手に拒否感情を持っていれば、子どもは会いたくないと言うのが通例だが、それを理由に家裁は面会を制約する。子どもの意思を尊重してと言いつつ、実際には、子どもに親を捨てさせているのだ。

要するに、親どうしがもめれば、解決策は関係を絶つということでしかないし、それが一番簡単なわけだ。子どもがいなければそれでもいいのかもしれないが、親のもめごとと子どもの養育責任は別問題だろう。子どもに会いたい親からはどうやって身代金をふんだくるかというのが、弁護士の仕事に見える。面会も養育費も慰謝料請求も同列で弁護士のアイテムとしてしか見られていないようだ。そんな弁護士たちが、別居親が親の権利を言い立てることに眉をひそめ、「子どもの最善の利益」を理由にハーグ条約に日本が加盟するのに抵抗する論理を一生懸命組み立てている。

何より、家裁も弁護士も協力ができなければ面会交流は無理、という発想に凝り固まっていて、そもそもどうやって面会交流すればいいのかの知識も経験もあまりないのだ。面会交流をしているぼくたちに聞けばいいのにそれもしないどころか、政治的に対立して問題の解決を先送りし続けている。「私たち抜きに私たちのことを決めるな」だ。

ルールが詳細であれば親どうしの関与がなくても面会交流は可能だ。面会が頻繁であればあるほど、親も親として育っていくし、子どもも面会交流に満足していくのではないだろうか。よく弁護士は、面会交流が途中で途絶えてしまうことがあることを懸念するが、そもそも、諦めることなく月に1回2時間程度の苦行のような面会に耐え続けている親のほうこそ賞賛に値すべきだ。子どもだって、2時間程度の親との交流をするより、友達と遊んでいたほうが楽しいとなるに決まっている。宿泊つきで十分な面会時間があれば、満足して帰っていくことだってできるだろう。

養育時間も平等に分け合うということになっていけば、離婚と同時に週末のみ子どもの養育を父親が見てと、母親の側の不満が高まることもないだろうし、これまで育児に関心のなかった父親が育児のたいへんさを思い知る機会にもなっていく。母親が一人で子どもを抱え込まなければいけないということもなくなるし、少なからずいる子どもと離れて暮らす母親は、「子どもを捨てたダメな母親」という評価から自由になる。何より、子どもに会いに行かない父親は社会的には容認されなくなっていくことになる。

もちろん、行ったり来たりする子どもの側はたいへんかもしれないし、ことはこれほどに単純でもない。しかし古い価値観と新しい価値観との間に線を引く時期にさしかかっているのは間違いない。法律がすべてを解決するわけもないが、この問題に関しては、法律抜きにことは進まない。

最後に私たちの会のメンバーを紹介する新聞記事を読んで寄せられた方からのメッセージを紹介したい。

 

「私は結婚も離婚もしていませんし、子供もいませんが、
記事を読んでものすごく心を動かされました。
というのも、私の両親も私が小学校に上がる前に離婚していて、
私は母に引き取られたからです。

しかし、私の場合は母が欧米人だったのもあり、
日本の「離婚したら相手の親には会わせない」という考え方が理解できず、
DVを受けていたにもかかわらず父と定期的に会わせるよう
家庭裁判で取りはからってくれました。

おかげで私は、父や兄と定期的に会うことができました。
当時はそれが普通だと思っていましたが、
周りの友達の話を聞くと「離婚後に父親と会っていない」とか
「会ったこともない兄弟がいる」といった話が普通で、

むしろ私は特異なケースなのだと知りました。

と同時に、夫婦の離縁で親子の縁まで切られてしまうなんて、
とても冷たい世の中だと思っていました。

今、私は母の家からも離れ、一人暮らしをしています。
人に実家を訊かれたら、父の家と母の家の二カ所を答えます。
残念なことに、私は父を父親らしいと思ったことはなく、
母が離婚したのは正解だったとも思っています。
けれどもし小学校以来父と会っていなかったら、そうは思っていなかったでしょう。
むしろ母を恨んでいたかもしれません。でも今は母に感謝しています。

親が離婚しているときくと大抵の人は
私を不幸な子供時代を送ったと先走って考えますが、
そんなことは絶対にありません! 
私はとても幸せでした。

離婚は賛成です。
でも、親に会わせないのは反対です。
よっぽどの理由がない限り、家族の縁を断ち切るなんてひどいと思います。
「会わせない方がいい」という考え方に共感できた試しがありません。
ですから、このような運動が行われていると実際に知って、とても感動しました。
親だけでなく、親に会いたい子供もこの運動を知るべきだと思います。

以上長くなりましたが、記事を読んでどうしてもお伝えしたくなったので、
メールさせていただきました。
共同親権、ぜひ実現させてください。
私も知人にこの運動を知らせたいと思います。応援しています。」