国立市公民館で開かれた共同親権祭り、国立ローカルなイベントにもかかわらず、15人近くが集まり、けっこう活発な議論にもなって充実した内容でした。

宗像からは今年論争の的になった「親子断絶防止(推進)法」について、あらためて解説しました。内容については、ホームページにまとめました。
http://kyodosinken.com/2017/12/12/danzetutirasi/
正直、この法案の推進勢力と議連は、別居親子の前に立ちはだかっているだけなので、もうとん挫しているんだから解散してほしいです。
ところで、こういう議論をすると、断絶推進側とちゃんと話せとかよく言われて、この日もそう言われたのですが、kネットは質問書を出していて、その答えが「答えない」というものなので、話し合いを促すのであれば、こちらではありませんよね。言い訳するぐらいなら会いに来てるだろうし。基本的に、別居親だろうが同居親だろうが弁護士だろうが、断絶推進という面では同じなので、その方たちと話してお願いする以上のどういうメリットがあるのかも不明です。

久米泰介さん(『ファーザー・アンド・チャイルド・リユニオン』翻訳者)からは、アメリカで乳児の宿泊面会を否定する著作が出され、論争になった事例が紹介されました。

フェミニズムの研究者による一面的なデータの扱いの著作が、何度もくり返し使用されることで、まるで事実として独り歩きし、共同養育の推進側とでデータの扱いの面から論争になったそうです。偉い学者さんたちも共同養育推進側で論争に参戦して、賑やかなことになったという報告をしていただきました。面前DVで脳が委縮して「だから引き離さないと」という議論がせっせと量産されている日本の状況とよく似ています。
「データは裏切らないけど解釈は間違う」ということを自然科学の学者さんに聞いたこともあります。データの扱いがサイエンスのレベルに達しているのかも問題ですが、相手とは関わり合いになりたくないけど、子どものことは気になる、というのが普通の感覚だと思います。というか、暴力やハラスメントがやんで、両方の親に愛情深く接してもらえるようになるのが子どもが希望することではないでしょうか。

小島太郎さんからは、都や国の議員と話してみたときのいろいろな反応を教えてもらいました。

小島太郎

結局のところ、議員は現場のことは知りませんので、誰かがやってくれているならと安心するのは人情です。自分たちの主張を偉い人に受け入れてもらうために運動をしているのではなく、社会を変えるために運動しているというのですから、当たり障りのないことを言って議員になめられるより、議員をつきあげて使うだけの力を当事者たちが持たないとならないでしょう。
離婚を経験したかつての子どもが(いまは大人)、面会を強制させられていたら会いたいと思わなかった、という発言をして回っている、ということを小島さんは問題提起しました。だから別の離婚を経験した子どもを探してくる、ということではなく、かつて子どもを経験したぼくたち自身が、なぜ今親どうしの別れに直面して、子どもとのかかわりを求めているのか、それで双方や子どもたちにどんな経験を残していけるのか、それを言葉にすることのほうが大事だと思います。
親の離婚を経験したかつての子どもの話に耳を傾けることは意味があるかもしれませんが、親の離婚を経験したかつての子どもが、親の離婚を経験していなかったかつての子どもを「わかってない」なんて言うことに正当性があるとは思えません。それに子どもに会いたい親にも、親の離婚を経験したかつての子どもはたくさんいますし。親たちは親として生まれたわけではありません。子どもよって親にさせられているだけです。(宗像、写真は過去のものです)