『ひとり親家庭』書評を読んで
宗像 充

本文は、三多摩労働者法律センター「運営委員会ニュース」(No.360)
の「新書で考える労働と生活」のコーナーで紹介された表題の新書
(赤石千衣子著、2014年、岩波新書)に対し、
編集部に送った寄稿文です。
No.361に掲載していただきました。

子どもの引き離しを認める弁護士会

 ぼくは、子どもと離れて7年目になり、その運動を組織してきた。
離れて暮らすだけなら我慢もできるが、子どもから2年半引き離され、
さらに隔月4時間という交流時間を今も強いられている。
拒否の理由はその都度代わり、もっと会いたいと要求を出すごとに
「だったら会わせない」と相手方の弁護士ともども恫喝をかけられる。
裁判所はそれを追認し、
1~2月に1回2時間程度という常軌を逸した交流頻度を押し付ける。
どうしようもないのが、日ごろは人権を掲げて華々しい弁護士たちが、
この問題では面会を取引に条件(主に金)を引き出す
「人質司法」に手を染めてきたことだ。
「国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約」の議論では、
日弁連が国際離婚における子どもの返還規定が、
日本国内の離婚当事者に及ばないように、
という驚くべき差別声明を出した(会長は宇都宮健児)。
一度西東京法律事務所主催の面会交流の勉強会に出た。
やったこと自体は良心的だが、
日弁連意見書をさも誇るべきことのように紹介するレポーターに、
正直言葉を失った。

両親で子どもを育てることを拒絶する「ひとり親家庭」の思想

離婚・未婚時の単独親権強制制の中で、
子どもは親に会いたいとは言いづらくなり、
やがて親子関係が絶たれる。
これを片親疎外と呼ぶ。本書はあえてこの問題を避けて通る。
片親疎外の可視化の運「動」に対する「反動」である。
 「ひとり親家庭」という書名自体がそれをよく表している。
離婚は親がするものだ。
子どもにとっての離婚とは家が2つになることであり、
一方の親の意向のみで「ひとり親家庭」を
子どもが押し付けられる理由はない。
財産は分けられるけど、子どもは分けられない。
だから子育ての時間を分ける。それが共同養育の考え方だ。
養育費はひとり親家庭への支援ではなく、
個々の子どもが育つための権利であり、子どもが受取人である。
児童扶養手当も同様だ。
親はそれを保護者として執行しているに過ぎない。
その当たり前のことを無視して、
先進国の中で2割の養育費の取得率を嘆いても仕方ない。
2割の取得率は15年以上にわたり、その間に強制執行が強化された。
明らかに運動の失敗である。
単独親権の強制が生み出す「ひとり親家庭」の枠組みが
壊されるのを嫌えばそうなる。
ひとり親の苦境が本書の通りであるにしても、
別居親を養育の担い手ではなく、金づるとしか見ない離婚家庭支援は、
性別役割分業意識そのものである。

片親疎外は人権問題だ

 多分、本書を作るためだろう、
ぼくは本書の著者からインタビューを受けた。
以前挨拶しても無視されたことがあったので、謝ってもらって会ったが、
「敵なのによく応じましたね」と言われて驚いた。
共同親権への移行は養育負担を男性に担わせるという点では
同居親のためにもなる。
別居親の相談は、こんなに子どもと会うのがしんどい中、
冷静な対応を呼びかけるという点で暴力の防止にも役立っている、
と彼女に言った。
なお、同居親が落ち着くまで半年程度引き離したほうが……と彼女は言う。
半年の引き離しが招く悲劇を日々見せつけられる側としては、
彼女の子どもの所有意識に議論するのも面倒になった。
それで「面会交流が子どもの権利」など
白々しい言葉を弄ぶのは慎むべきだろう。
著者は片親疎外を人権問題とは位置づけない。
だから素敵に別居親団体の存在を無視する。
家制度の強制は共通の敵にはなりえないようだ。
がっかりだ。